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父 の 仕 事

6月21日は私の父の命日です。
2002年の新病院を4月に落成後、新病院を見ず2002年の6月に70歳で亡くなりました。

 
 私は父が33歳のときの長男で、私の息子も私が33歳の時の長男なので
息子を見ていると 当時の自分、当時の父を思い出します。
答え合わせはできないし、状況はちょっと違うことは判っていますが、
自分の今の気持ちをもって当時の父の気持ちを探ろうとしている自分に気がつきます。
ただ、私は姉二人の末息子の甘えん坊で、 私の息子は 独り息子の 敵なしの甘えん坊ですが・・

 
 2002年に亡くなった私の父の職業は 田舎の小さな工務店に勤める大工でした。
私は小さいころ 「どうして大工になったの?」 と父に聞いたことがありましたが、
「 他にする仕事がなかったから・・ 皆そうだった。そういう時代だった。 」 という答えでした。
父は昭和6年生まれで終戦時は14歳、もうすぐ戦争に行かなくてはいけないと思っていた年代に違いありません。

 
何度か 時を違え 聞いた気がしますが いつも 答えは同じでした。

 
「 こういう大工になりたい 」 とか 「 こういうことをしたい 」 などの仕事に対する情熱を 
父は私には語ってくれませんでした。
あるいは 父は語りたかったが、当時の私には 興味がなかったかもしれませんし、
言っていたけど、私が覚えていない 可能性もあります。
私は父が33歳のときの子供なので 私がこういう質問をするころは すでに 40歳を過ぎていたので
仕事に対して 熱くないのも しょうがないかもしれませんし、説明するのが面倒だったかもしれません、
あるいは 恥ずかしかったのかもしれません。

 
彼が若いころ、一度だけ 勤めていた工務店をやめて、独立するという計画があり、
諸事情で断念したということを 聞いたことがありましたが、
残念ながら、そのいきさつは私には他力本願で なにか言い訳にしか聞こえませんでした。

 
 父の実家は田舎の裕福ではない農家で 5人兄弟の2番目でしたので、戦後ということもあり、
尋常小学校(今の中学校)を卒業後 すぐに 大工に弟子入りしたとのことでした。

 
実家の家計をどれだけ 助けられたかは 判りませんが、口減らしにはなったでしょう。
事実、彼の妹や弟は彼より高学歴でした。(そういう時代ではありました。)

 
以後、大工になりたくはなかったかもしれないが、結果的に絶対やりたいほかの仕事もなく、
他の職業は経験せず、 生まれた町を出ることもなく、職場も変えず、彼は大工をやめませんでした。
(カメラマンに成りたかったと聞いたことがある。)
家庭のこともあったと思いますが、ずーっと 大工の仕事を続け60歳の定年まで工務店を務めあげました。

 
 父は23歳で20歳の母と結婚し、実家の近くの土地を分けてもらい そこに新居と理容師である
母の理容店 (美空理容所=アンドレの名の由来参照) を開業しました。
当時は珍しくない状況と思われますが、母の20歳での独立開業は少し早いかも知れません。
若い二人の希望とガッツが想像できます。
そして、二女一男を授かり育てました。

 
 私が父の仕事を意識したのは
私が当時行っていた幼稚園の新館を父の勤める工務店が建てており
その工事を おとなしくて、ぼんやりしていた幼稚園児の私は 独り遠くから、体育館の窓越しに
働く父をマジかに見て 「少し誇らしげに感じていた」 のを 覚えています。

 
 父の勤める工務店は一般木造家屋を主に建築していたと思います。
昔は建前(棟上式)となると 振るまい酒や料理 折り詰めを 建て主が大工さんに お礼するのが一般的で
今思うとぜんぜん美味しくもない 時間が経ったカピカピの乾燥した寿司、仕出し折り詰め、 
鯛の形をした らくがん、羊羹のお土産(息子のタオル参照)が 楽しみで仕方がなかったです。

 
当時、多分 父は 寿司屋に行っていた と思いますが、 子供たちは ほとんど行った記憶はなく
今のように安い回転寿司もなく 私たちにとって 握り寿司というと カピカピの折り詰めでした。
でも、大好きでした。
子供たちが 喜んで待っているのを知っていて、自分は手を付けずに 御土産として持って帰って来ていたのだと今の私には容易に想像できます。

 
 私の実家(父の家)は父により 徐々に建て増しされ 床の高さもまちまち、 めちゃめちゃな間取り、
とてもプロとは思えない無計画さで増築されていました。
たぶん予算と材料の問題と いつでも改築できると思っていたに違いありませんでしたし、
家庭では建てつけが悪い戸なども直さず、
家庭内での大工としての父の評価は低かったように思います。

 
今思うと 持ち家があるだけ すばらしいことなのですが、
私は中学生以降は反抗期ということもあり、 
父の職業を書く書類に 「大工」 と書くには 少し抵抗があり 「建築業」 と書いておりました。

 
 父の趣味は魚釣りで 休みになると 必ず 友人と 行っていました。
父の年齢を考えると しょうがないと思いますが、中高生の私には 「趣味の魚釣り命」に見えました。
趣味と言えそうなものは無く、 仕事しかない今の自分を思うと、 
魚釣り命は すっごくうらやましく、 人生の中ですばらしいこと と思いますが、
子供たちのための時間はあまり存在しなかったと思います。(当然かもしれないし、長女は違うみたい)

 
冬場のこたつには 「木くずと魚の鱗」 が見つかるのが、思い出されます。

 
 父は60歳で勤め上げた工務店を定年退職し、1995年(64歳)に交通事故にあうまでは、
弟弟子の会社の大工仕事や長女の夫の土建業を手伝っておりました。

 
退職後の父の仕事振りを まじかに見た長女は 「父の大工としての腕はすばらしい!!」 
と言って感心してましたし、 私も宇都宮 不動前に開院したときに 宇都宮に来てもらい 
棚や戸などいくつか大工仕事をしてもらいました。

 
それらの父の仕事は思った以上に すばらしく、「きちっと」 していました。

 
私は 父のプロの職人の仕事に感心し ずーっと前に忘れてしまっていた 
あの幼稚園時の誇らしい気持ち を思い出しました。

 
父が亡くなる前に 「ただの棚」 ではありますが、父の仕事に触れられ よかった。
その棚を見て 父が自分のため、家族のために 向上心を持って頑張ってきたんだ ということを感じました。
この仕事で育ててもらい 裕福ではなかったが、自分が希望した大学に行かせてもらった。
そして、自分が希望した職業につけた。
父がしたくてもできなかった、チャレンジするチャンスをもらった。

 

 

そして 今の自分がある。  仕事がある。 生活がある。 妻と息子がいる。

 
自分も 「 獣医師として父に恥じないプロの仕事をしなくてはならない 」 と感じました。

 

 

  そして、 父が大工であったことを 今は誇りに思っています。

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